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  3. [ COLUMN ] Vol.4 カンタ織は、ハスの花

Kantha is a flower of lotus

カンタ織は、ハスの花

9月のはじめ、リサイクルサリーストールが作られている現場、北ベンガルで一番貧しい町のひとつといわれる村を訪問しました。あらためて、どのような場所でどのような生産者が働いているのか、この目でみておきたかったのです。
朝4時に起きて、カルカッタの出発駅へ向かいます。そこからベンガルを北上し、ダージリンなどに向かう列車が次から次へと到着しては200人を超える乗客をぎゅうぎゅう詰めに乗せてまた発車するのです。朝5時だというのに、駅はすでに人の流れが波のように押し寄せ、人や犬、ほこり、屋台のごはんのにおい、あらゆるものが混ざりあい、体をすり抜けていきます。
構内の床には、地方からやって来てそのまま居ついてしまったホームレスが人の流れのど真ん中に寝ていたり、水飲み場で歯を磨いている人がいたり、床に赤ちゃんを寝かせてオムツを替えているお母さんがいたり、いわば無法地帯。誰が何をしようと関係ないのです。おそらくここで私がカラオケしはじめても、誰も文句など言わないでしょう。

カルカッタの駅、朝5時

自分にとって、初めての寝台列車。5時間を超える列車の旅でしたが、到着駅のアナウンスがないため、ずっと起きているはめに。下から聴こえてくる知らないおじさんのイビキをBGMに、「どうやってインド人は自分の降りる駅がわかるんだろう。」と考えていました。
目的の駅に到着し駅を出ると、首にまいていたスカーフで口を塞ぎ、足早に歩きました。水たまりに蚊と蝿が飛び交い、牛や山羊の糞と泥が混じり合った土の中に、住人たちが捨てたチャイのカップやお菓子の袋が、泥の中から半分顔を出していて、その上で子供たちが遊んでいる。大人たちはリクシャーの上で寝転がって、珍しい日本人の私をじっと見つめている。
人間の衛生意識は、どこで育つのだろう?これも教育の欠陥と一言で片付けられるのだろうか?シンガポールでの李光耀が行った開発独裁、「ゴミ捨てたら、罰金」みたいな抑制力が有効なのだろうか、と自問自答がぐるぐると頭のなかをめぐりました。答えなど、見つかるはずもなく。

線路はホームから降りてわたるもの

この地域の住民の90%以上はムスリムで、いまだに女の子は15-17歳で結婚する習慣が残っています。また北ベンガルはネパールとバングラディシュの国境に近いため、多くの出稼ぎ労働者がこの場所を通り、売春や人身売買が多く起こっています。
カルカッタで売春している少女たちを匿ってジュートバッグなどを作っている団体の代表もそういえば、「すべての元凶は、この地域にある」と言っていたのを、ふと思い出しました。

カンタ織を製作している団体の施設は駅から車で1時間ほど。その団体の設立者である女性が偶然家族と知り合ったのがきっかけで、今回特別に工房の様子を見せてもらえることになりました。彼女とランチを食べながら、この団体をはじめたきっかけを聞いていると、そのあまりにタフでドラマティックな人生に、言葉を失いました。
イスラムコミュニティに生まれた彼女は16歳のときに、お見合い結婚をさせられ32歳の男性と結婚し2人の子供を産みます。しかし度重なる暴力に堪えかね、離婚。「女性から離婚を申し出ることはイスラム社会ではあってはいけないこと。親からも勘当され、駅に2ヶ月住み着きながら、ようやくデリーでインテリアの仕事をはじめたの。」彼女は力強く私たちに話しました。

カンタ織製作の現場

しかし、もっと社会にとって意義のあることをはじめたい- そう考えた彼女は再婚した夫とデリーそしてこの地域でストリートチルドレンに向けての教育活動をはじめます。そうやって自分の故郷で活動をはじめた彼女は、そこで生まれたカンタ織を利用し、コミュニティの女性たちと共にカンタ織をはじめたのだそうです。団体の横には学校もあり、カンタ織で手に入ったお金を教育資金として活用。彼女の毅然とした態度、パワフルな物腰を見ていると、イスラムコミュニティにおいて男性社会や電気も通らない土地、怪訝な顔つきで見つめる周囲の人々、すべてのアンフェアネスに立ち向かいながら、どれだけ彼女が努力をかさねて、行動してきたか、がわかりました。

たくさんのカンタ織を鑑賞させてもらいながら、工房を歩いていると「模様にたくさんの名前が付けられているの。たとえば、この模様はタブラ(インドの太鼓)。実際、太鼓のように見えるでしょう?」そう言ったとき、彼女の顔が初めてほころびました。彼女は、点描画のように美しいカンタ織に誰よりも魅せられたのだと、思いました。
カンタ織が歴史的にはじまったのは、昔のインド社会に存在した「ダウリ(結婚の際に、花嫁側の家族が花婿に差し出す金品)」がきっかけでした。 経済的に苦しい家族は、金品の代わりとして、女の子が生まれたと同時にカンタ織を刺繍しはじめ、女の子が15,6歳で嫁にいくまでに延々と刺繍し続けるのです。膨大な時間をかけて作られたカンタ織は重宝され、価値があるとされるからです。
カンタ織は、ある意味、お母さんから娘へ、 自分の人生、時間を捧げた、世界にひとつのプレゼントでもあったのです。どんなことを考えながら、母親は娘のために織るのでしょう。たいていの母親のように、娘の幸せや無病息災を願うのでしょうか。

何年もかけて作られるカンタ織

工房をまわり、クタクタに疲れたわたしは、団体施設にあるベッドで昼寝をさせてもらいました。そのあと、30度をこえる暑さと、高い湿度でビショビショになったTシャツのまま、夕方の列車に乗り込みました。ムルシダバードからカルカッタまで、カタカタと列車に揺られながら、横に座ったインド人たちの大声の会話にすこし辟易としながら、列車の壁に飾られた、色あせたラビンドラナール・タゴールの写真をぼうっと眺めていました。心のなかで、「ようやく、家に帰れる」と正直思いました。自分は、甘えきった環境のなかで育った人間だということを、まざまざと感じさせられた旅は、これがはじめてでした。
しかしながら、あのきびしい環境から生まれてくる美しさは、泥の中から花を咲かせる蓮(ハス)の花にも似ているような気がします。あの地域の女性たちは、カンタ織にどれだけ自分の思いを重ね合わせたことでしょう。
その厚みのある美しさと、背後にある長い歴史と物語を、もっと多くの人に知ってほしいと改めて強く思います。

(著者:Chiaki)